放り出された青




 偶然だった。
 きっと雨のせいだろう。いつも自転車通いのあの人が、バスの中にいた。なぜ自転車通いと知っているかというと、単に家が近くてよく見かけるからだ。
 バスの中は湿気で暑苦しい。肌に膜がかけられているようで、気持ちが悪かった。揺れる度に、背後に立っている人の傘が足にあたって、温い感触がした。制服は染みになっているだろうけど、もういい、諦めた。
 交差点をぐるりと回って、バスは僕が下りる停留所に着いた。最後の最後で、やはり後ろの人の傘があたった。強く押し付けられたため、痛みすら感じた。梅雨は嫌いだ。
 定期券を見せてやっとのことで解放されると、僕は自然と伸びをした。空はどんよりしているし、雨はぱらついているけれど、あの密室よりは楽園だ。
 家の方に向かって、路地を歩いた。住宅地ならではの、車の通らない遊歩道だ。左右に植え込みがあって、木々や草花は濡れた葉を惜しげもなく伸ばしていた。
 前方を見ると、あの人がいた。真っ青な傘をさして歩いている。色鮮やかだなあと思った。対する僕の傘は黒い。彼女の歩みは遅かった。ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように歩いている。このままでは追いついてしまう。その場合、一応顔見知りであったから挨拶をしなければならないだろう。僕はそういうことが億劫だったので、自然と速度が緩んだ。つけまわしているように見えないよう、さり気なくスピードダウンする。そうそう、僕は植物を鑑賞しているんです、といった風に。
 彼女は、相変らずゆっくりと歩いている。緑に挟まれて、多角形の青が目に染みた。
 青が動いた。
 彼女が傘を上に持ち上げたのだった。右手で、精一杯腕を伸ばして、空へと掲げている。青が少し空へと近づいた。彼女はいつの間にか立ち止まっていた。僕も止まった。
 彼女は上を見上げている。あれでは傘の役目を果たさないだろう。案の定、雨は彼女を濡らしていった。風邪を引かなければいいけれど。
 すい、と傘が引き戻された。彼女の黒い髪が隠れた。終わったのだろうか。けれど、彼女はまだその場に足を止めている。少し盗み見ているようで、ばつの悪い思いがしたけれど、僕まで歩き出すことが出来なくなってしまったようだ。動けない。
 静かで、雨の音を強く感じた。正確には、傘にあたる水の音。ぱつぱつと音を立てては落ちていく。
 突然、彼女が動いた。というより、傘が動いた。気づいた時には、傘は彼女の頭上高くに放り投げられていた。どこにそんな力があったのだろうか、傘は高く空へ舞い上がって、くるりと回転しながら布の面を下にして、地面に落ちた。やけにスローだったと僕の脳は記憶した。
 彼女は気が済んだのか、傘を拾うと腕を大きく振り回した。そして、雨避けにする。黒い髪が隠れた。
 彼女が歩き始めてからも、僕はその場で見送っていた。青い傘がカーブした緑の中に消えていった。
 僕は傘の柄を握り締めた。
 リミッターが振り切れたらしい。心の容量を越えて、どうしようもなく溢れ出した。







Back









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送