がらくた




 失う事が怖いなんて、一度も思わなかった。



「まあ、何だかんだで楽しくやってるみたいだし。良かったんじゃないか。安心した」
 酒を飲み干してからそう言う高橋を眺めて、峻は笑った。
「別に、心配されるような事じゃなかったと思うんだけどな」
「バカ言え。渾沌と混乱を引き起こした張本人が。俺がどれだけ苦労したと思ってんだ」
 酒が入ると、人はどうして昔話がしたくなるのだろうと峻は思った。酒がそうさせているのか、それとも酒のせいにして語りたいだけなのか。どっちなのだろうとしばし悩んだ。
「大変だったけど、その分今が幸せみたいだから良いけどさ。……岩崎元気か?」
 峻は頷いた。
「元気。今は実家帰ってるけどな」
「……ってことは、和解したのか?」
 目を見開いて、高橋は少し身を乗りだした。
「あんなに駆け落ち同然だったのにか?」
「一人娘だから。怒りなんて持続しなかったんだろう」
 峻はビールを煽った。こうしてここで遅くまで飲んでいられるのも、妻が帰郷しているからだった。彼女がいるときに、人を家に連れてなど来れない。
「そうか、良かったな」
 高橋はやけにしんみりとして呟いた。しかし、手はビールの缶に伸ばされていて、プルトップを引いていた。高橋はここに来るのが初めてだというのに、すっかりくつろいでしまっている。
「そっちはどうなんだ?」
 話の転換を求めて、峻は話を振った。
「ん? ああ、相変らず高校生はやかましいな。若い奴らに教えるのも大変だよ」
「教師は責任重大だからな」
「それは、お前だって一緒だろう」
「俺は」
 峻は言葉を切った。
「俺は、所詮塾講師だから。責任は薄いよ」
 せいせいした、という風に、峻は言った。
「ふーん。まあ、お前には合ってるのかもしれないな、逆に。あ、そうそう、ケイタイのナンバー教えろよ。ったく、無くしたとか信じらんないな。今日たまたま会えなかったら、いつ会えるか分からなかったじゃないか」
 峻は苦笑しながら、携帯電話を取り出すと、まだ馴染んでいない自分の番号を呼び出して言った。
「サンキュ。んじゃ、俺はそろそろ帰るな」
「ああ」
 高橋は帰り支度をさっさと終わらせると、席を立った。酒に強いのか、少しもふら付かない。
「あれ?」
 リビングを通り過ぎる時、その横にあった水槽を見て言った。
「この熱帯魚、何か元気なくないか?」
「気のせいだろ」
 熱帯魚用の水槽は、青白い光を放っていた。



 峻は塾講師と言っても、代々木やらの大きなところの講師ではなかった。たまに広告欄に載る程度の小さな塾で、少数人数制を売りにしている。毎日の課題を出され、週に一回は担当講師からチェックを受け、進度の点検をされる。自主的に出来ない子、大勢の人間の中にいることが苦痛な子に適している塾だった。
「だから、今はとりあえず勉強しておきなさい。それだけはきっちりしていれば、後の方で後悔することはないから。まだ時間はあるし」
「でも先生、私は専門学校に行きたいの! ここで役に立たない勉強しているより身に付く物が欲しい」
 峻は内心でため息をついた。
「ご両親には話してみた?」
 少女は俯いた。
「……話したけど、ダメだって」
「なら、ここで愚痴っても仕方ないだろう。まずは親の説得から始めなさい」
 そう言うと、少女は顔を上げた。
「先生が説得してくれない?」
「それは無理だな」
「どうして?」
「塾の講師が、専門学校に行く手助けをする義理はないだろう?」
 少女はショックを受けたように固まって、目を見開いた。峻は重ねて言った。
「そういうことは、学校の先生にでも言いなさい」
 ここは学校じゃない。
 そう言いきって突き放してしまえる点で、塾の講師はとても楽だった。教師をしている時にこんなことを言おうものなら、即呼び出しか、悪くてPTA問題になる。塾は商業なのだ。ここに来るという時点で、勉強をするという意思があるはずだった。ならば、こちらはその望む勉強法と知識を与えるだけでいい。
 このような相談を受ける義理はないのだ。そう思いつつも、釈然としない風の少女を見て、少人数制の塾を選んだのは間違いだったかと思った。巨大予備校での講師の多さにうんざりしたため、こういったところを選んだのだが、それに伴って面倒な事も増えた。何を勘違いしているのか、生徒は塾の講師に相談事を持ち込む。しかも、進路の相談ではなく、もっと広範囲な。
「先生って、冷たい! 相談事くらい乗ってくれたっていいじゃない!」
 嫌だね、面倒くさい。とは心の中でのみ呟いた。一応、これも営業の一つだ。遺恨を残してしまうのも面倒くさいので、峻は笑顔を作って言った。
「不用意なアドバイスをして、間違ってしまったら君だって嫌だろう? もう一度、じっくり考えてみたら?」
 笑顔の功名か少女は僅かに頷いた。



「先生ったら、相変らず愛想ないんですね」
 少女が出て行った後、すぐに入ってきた人物を見て、峻は眉を顰めた。
「何だ、ミワか」
「ミワじゃない、ミカズです」
「同じようなものだろう」
 やれやれ、と峻は立ち上がった。先ほどの茶番ですっかり腰が固まっていた。後に反り返って伸ばすと、実和がくすりと笑った。
「おじさん」
「実際におじさんだからな」
「まだ三十一でしょう?」
「お前は十九か。まだ若いな。……大学は楽しいか? 医学部だったっけ」
「そう。まあ、楽しいとは一概に言えないけど、充実はしてる」
 実和は両腕を組みながら首を傾げた。腕が交差し、右手が上に見えた。その薬指に銀の指輪が光って見えた。それに見覚えがあったので、峻は視線を止めた。
「まだしてるのか、その指輪」
「え? ……ああ、まあね」
 実和は右手をかざして、五本の指を伸ばした。確か、実和が予備校生だったときからしていたと、峻は記憶していた。アクセサリー系を身につけていなかった実和が、唯一、それこそ肌身離さずつけていたため、記憶に残っていた。
「飽きないか? ずっと同じ物をつけて」
「飽きませんよ。もう、私の一部みたい。先生みたいに、いつも違ったものを買うお金もないですし。……あ、ところで、先生、奥さんとは上手くいってるんですか? 私の一つ下でしたっけ?」
「二つじゃないかな」
 高校を卒業してもいないはずだった。
「じゃあ、噂は本当だったんですね」
「噂?」
 分かっていて、峻は聞き返した。
「先生が教師を辞めたのは、教え子に手を出したからだって」
 峻は笑った。
「とても、正確な噂だな」



 家に帰った頃には、日が暮れ始めていた。部屋に入ると、西日が恐ろしいほど色鮮やかに室内を浸食していた。よく考えずに、西向きの部屋なんかを購入するからだと思い、もう必要がないだろうから、引越しをしようかと峻は思った。
 そう思った時、計ったように電話が鳴った。妻の梓の趣味で、軽快な音楽に設定されている。場違いにやかましくなる音を阻止するために、受話器を取る。こんな音が鳴るのなら、かけてきたのが誰であっても、鬱陶しく思いそうな気がした。
「はい」
『あ、峻? あたし、あずさ!』
「……ああ」
 数日前までここにいた声が、受話器の奥から聞こえてきた。少し電子に置き換えられているせいか、梓の声じゃないような気もした。だから、電話はあまり好きではない。
『あのね、明日帰りたいんだけど、峻、明日お休みだよね?』
「ああ」
 塾は日曜日が必ず休日になる。
『迎えに来て欲しいんだ。お父さんもお母さんも、峻と話したがってるの。ね、凄いでしょう。あたし達のこと、認めてくれたのよ。許してくれたの。駆け落ちももう終わりに出来るわ!』
 興奮のためか、梓の声は通常よりも高く、余計に峻の鼓膜を弾圧した。
「へえ、良かったじゃないか」
『でしょ、だから、明日来て欲しいの! 待ってるから』
「待たなくていい」
 もう、早く打ち切りたいという気分しかなかった。
『え、駄目なの?』
「帰ってこなくていいよ」
 自然と優しげな声になっていた。最後だと思うと、優しさなどはいくらでも提供できる。
『え? 峻?』
「もう、お前は要らないよ」
『……なにそれ? ちょっと、峻?』
 ますます高くなった声にうんざりして、峻は受話器をくべく、耳から下ろした。それでもかすかに空気中を震わせて梓が叫んでいる声が聞こえた。
「もう、欲しくないんだよ」
 そう言うと、峻は受話器を置いた。がちゃんという音が心地良い。
「今回も、長続きしなかったな」
 呟きながら、スーツのネクタイを外す。教師の頃の名残か、私服よりもスーツを着ているほうが楽だった。
 明日には、不動産を巡ろうか、と峻は思った。梓が血相を抱えて帰ってくる前に、ここを出たい。まあ、まず無理だろうが。
 梓は生真面目で美人な女子高生だった。他の生徒と違って、自分に興味を示さなかった。峻が話し掛けても、無関心だった。――それが面白かった。
 手に入れたいと思って、実際それは容易く手に入ってしまった。駆け落ちという手段で。職は失ったが、そんなものは惜しくも無く、すぐに塾で採用された。
「一番、手に入れがいのある女だったのにな」
 今まで付き合ってきたなかで、と峻は名前も顔すら覚えていない人々を思い浮かべようとしたが、脳裏に蘇ってこなかったので、諦めた。
 昔から、物欲が強かった。
 峻は何となく思い返した。
 欲しいと思ったものは、手に入れてきた。人にとっては些細な事かもしれないが、欲しいと思った瞬間には、それがたとえただの石であっても、手に入れた。人が持っているものは、こっそり盗んだりもした。よく捕まらなかったものだと思う。
 けれど、手に入れた途端に、それらは片っ端から意味を無くしていって、興味が失せていく。がらくたのようになって、結局は棄ててしまうのだった。おかげで、手元に残ったものなど、一個も無い。
 人も、物も。
 欲しいものなど、手に入れた瞬間に欲しくなくなる。手に入れるまでのプロセスだけ、価値があった。
「次は、何がいいかな」
 呟いたが、欲しいものなどなかった。いつになったら、なくしたくないと思うものが出来るのだろう。
 まあ、とりあえずは、日当たりの良すぎない部屋か、と思った。
 閑散としているリビングを見回すと、青白い光が目立った。熱帯魚の水槽だった。近づくと、ほとんどの魚は動かずにじっとしていた。
 峻はそれらを一瞥すると、温水のスイッチを切った。青い光が消えて、部屋が薄暗くなった。
 きっと、今夜中には水面に白くなって浮かんでいるだろうと予想がついた。ちらりと、冷蔵庫に張られている予定表を見た。
 何だ、明日は丁度、生ごみの日じゃないか。







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