すきま



「はい、これ。もう埋めたりなんかしないでね」
「すみません」
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
 わたしは一つ頷くと、さようならを言って職員室を後にした。出た先の廊下は、三年前より全てが小さく見えて違和感を覚える。成長したことを実感した。体だけは。
 木造の廊下はぎしぎしと軋んだ。静かな廊下に騒音を立てて、わたしは玄関へと向かった。玄関は、生徒用の方ではなく、来客用の方だった。借りていたスリッパを脱いで、自分の靴に履き替えた。爪先を蹴って足を靴の中にはめ込む。わたしに慣れた靴は容易く足を納めてくれた。
 そのまま振り返らずに玄関の扉を開け、校門を後にした。もう、小学校に来るのはこれきりだろう。
 さっき受け取った箱が、歩く度にカタカタと音を立てた。耳障りだ。そんな音を聞きながら、さてこれをどうしようかと思う。先生に言われて引き取りに来たものの、引き取った後のことは考えていなかった。何しろ、ただ渡すものがあると言われただけだったのだ。まさか、この箱だとは思わなかった。
 長方形の箱は剥き出しでわたしの手の中にある。横にすることをせず、広い面を下にして、地面と平行になるよう保ちながら歩いていた。不自然だけど、そうしていた。
「どうせ、中はめちゃくちゃなんだろうけどさ……」
 立ち止まって呟いた。
 箱の中身はどうなっているのだろうと好奇心が沸いてきたけれど、わたしは開けることを躊躇った。無意識に眉を寄せた。忘れていたのになあ、と箱を見下ろしながらため息を付いた。
 いっそ捨てていってしまおうか、と丁度通りかかった公園を見て思いついた。確か、ここにはゴミ箱があったはず。
 一瞬考えて、わたしは実行に移そうと足を一歩踏み出した。その時、背中に衝撃があった。硬い感触ではなく、少し柔らかい。
「わあっ!」
「ぎゃっ!」
 わたしは転倒した。手に持った箱は少しの間、空気を泳いで、地面に着地した。しかし、その着地は少しも美しくなく、蓋が開いて、中身が飛び散った。無残な音がやけに大きく聞こえて、わたしは呆然と見ていた。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
 地面に座ったまま振り向くと、少女が立ち上がってわたしに手を差し伸べていた。これは掴まって良いという事なのだろうが、自力で立てそうだったので、わたしは首を振った。
「大丈夫、痛くないから」
 同じ年頃だろうと判断して、わたしは敬語を使わなかった。まあ、とっさに敬語が出なかったせいでもある。
「ごめんなさい、ぶちまけちゃって」
 少女は屈んで、地面に投げだされている中身を拾い始めた。
「あ、いいです。そのままにしてください。自分で拾うから」
「でも、それじゃ」
「捨てに行く途中だったから、気にしないで」
 にっこり笑って言うと、相手は少しほっとしたようだった。
「じゃあ、急ぐので行きます。本当にごめんなさい!」
 彼女は本当に急いでいるらしく、最後の言葉は走りながら言われていた。
 彼女の姿はすぐに角に隠れて見えなくなった。それを見送ってから、わたしは視線を地面に戻した。見慣れた品が、アスファルトの上に点在している。触れる気にはなれなくて、しばらく見下ろしていた。
「……すみません」
 頭上から声を掛けられて、わたしは空を仰いだ。空よりずっと近い所に、顔があった。男の人だった。若い。わたしを見下ろしていた。
「何ですか?」
「この辺を、中学生くらいの女の子が通らなかった?」
 わたしはピンときた。
「さっき、すぐそこの角を曲がっていきましたよ」
 指を差し、お兄さんの視線が重なるのを確かめてから、右へと動かした。
「そうか、ありがとう」
 お兄さんはそっけなく言うと、走って行ってしまった。先ほどの女の子より速かった。
「愛の追いかけっこかな?」
 痴情のもつれ、と馬鹿なことを考えてみた。
 あたりを見回すと、それ以上の人影はなかった。あるのは、わたしとばら撒かれた箱とその中身だけ。このままにしていくわけにはいかないので、観念して一つ一つを拾い上げた。三角定規、クレヨン、匂い付き消しゴム、など。見覚えのある、しかしどこか古めかしくなった物を回収する。
 けれど、わたしの手は、途中で止まってしまった。
「……何で?」
 目を見開いて、わたしはそれを凝視した。この中に、決して入っていないもののはずだ。永久に失われたもののはずだった。
 わたしはそれに手を伸ばした。




 小学生の頃、机の中にはいつもお道具箱があった。一年生の時に同じ物を買わされて、蓋と本体とを分けて机の中に並べて入れていたのだ。右側には教科書を、左側には文字通り道具類を。わたしは毎日席に着くと、その左の道具箱を片付けることから始めていた。わたしの日課だった。
 毎日片付けるから、もちろんお道具箱はきれいに整頓されたままだ。それでも、もう一度中身を全て出してから、詰め直すのだった。大きいものから順に。メモ帳やコンパスなど、角張ったものを角に合わせるように置く。その瞬間が、わたしはなぜか大好きなのだった。とても気持ちがいい。頭の中で描いたとおりに配置できた日には、一日が素晴らしく思えたりもした。
 そして、あの日。
 わたしは学校に着くなり、やっぱりいつものようにお道具箱を引きだして中身を机の上に空けた。選りすぐって入れる楽しみを味わうために、わざとばらばらになるよう空けるのだ。そうしてまた入れ直す。いつもと違って、いいや、いつもよりもわたしは楽しかった。気分が高揚していた。ランドセルの中から筆箱を取り出すと(もちろん、箱の中にこの筆箱を入れるスペースも確保してある)、その中に入れてきた可愛い消しゴムを取り出した。昨日お父さんに買ってもらったもので、最後にどうしても空いてしまう隙間に、合うかもしれないとねだったのだった。わたしはいつも、最後に空いてしまうお道具箱の隙間が気になっていた。きちんと埋めたいという願望があった。
「はまった!」
 わたしは歓声を上げた。
 何度も何度も、本当に毎日その隙間を見てきたせいで、わたしの目はその形を覚えていた。幅は鉛筆一本では足りなくて、二本では入らない隙間。縦も新品の鉛筆だったら、折らないと入らないくらいの長さだった。とても中途半端な隙間。
 お父さんに買ってもらった消しゴムというのは、鉛筆型をしていて、しかし鉛筆よりも若干太い。その上、長さも一段と短い。そのずんぐりむっくりな姿を、わたしはずっと求めていた。そう、この形! とわたしはぴんときたのだ。
 久しぶりに、体が熱くなるくらい、嬉しかった。その日から、ますますお道具箱の中身を埋める事に夢中になった。そして、必ず最後は鉛筆型の消しゴムをはめ込むのだった。


 しかし、そんな日々は長く続かなかった。
「あれ……?」
 お道具箱を開いたわたしは、その中に隙間を見つけて眉を顰めた。コンパスと、筆箱の間にある隙間。
「うそ」
 消しゴムが消えていると瞬時に気づいて、わたしは慌てて机の中を覗き込んだ。右側の、教科書をいれるお道具箱の蓋も取り出す。きっと、間に落ちているんだ。中は暗くて見えなかった。朝なのに中は闇が広がっていて、わたしに不安を起こさせる。わたしは手を差し入れて探った。手に馴染んだ感触を願ったけれど、触れる物はなかった。
「ない……」
 机を斜めに倒してみた。転がり出てくるものもなかった。
 ……どうして?
 ランドセルを肩から外して、もどかしく蓋を開ける。ビニールっぽい手触りで、表面は少しすべる。
 ガタガタと騒がしく、筆箱を取り出した。アルミの缶の蓋は、わたしの暴挙に悲鳴をあげる。でも、そんなことに構っていられなかった。
「……ない」
 もしかして、昨日筆箱に入れて持って帰ってしまったのかもしれない。そんな淡い期待は打ちのめされた。
 呆然としながら、わたしは席に着いた。先生が教室に入ってきたのだ。わたしの机を見て、片付けなさいと言う。わたしは悲しい気持ちで、すきまの空いたお道具箱を机の中にしまい込んだ。ぽっかりと、穴があいた気分だった。


 塞ぎこんだまま、放課後を迎えた。やはり消しゴムは見つからず、わたしは授業中にお道具箱を引き出すたびに寂しくなった。そして、どう考えても、わたしは昨日、ちゃんとこの隙間を埋めて帰ったのだと確信していた。毎日の習慣を、信じた。
 今週、わたしがいる班は教室が掃除当番だった。一番大変で、憂鬱になる掃除場だけれど、わたしは嬉しかった。まだ、教室の隅っこにでも転がっているのではないかという期待を持っていた。
 箒で丁寧に掃きだし、ちりとりでごみを回収する段階になっても、それらしき物は出てこなかった。がっくりしながら、最後に机を元通りに並べる。床を傷つけないように、ちゃんと両手で持ち上げて運びなさいと厳しく言われていたので、そうする。
 机の引き出し部分をお腹に当てて持ち上げると、当然斜めに傾くから、中身が出てしまう。そうならないよう、反対側を斜めにして持ち上げるのだけど、たまに、机自体が逆になっていたりして、気づかずに運んでしまう事もある。
 この時もそうだった。わたしはよく確かめもしないで、机を持ち上げたのだ。そして、床に物が落ちる感触がした。中身が落ちたのだとわかった。お道具箱の隙間から零れたのだろう。人の物だったので、わたしは慌ててしゃがみ込んだ。それを拾おうとして、動きを止めた。
 消しゴムだった。朱色の表面が光って見えた。
「あたしの……」
 どうして、と顔を上げると、一人の男の子と目が合った。いきなりのことだったので、びくりと肩を揺らしてしまった。それがいけなかったのかもしれないと、わたしは今でも思っている。その拍子に、伸ばした手が消しゴムに触れ、握り締めてしまった。机に戻せばよかったのに、わたしは戻さなかった。つい、ポケットに入れてしまった。
 男の子の視線から、目を背けた時には、すでに心臓が壊れそうなくらいどくどくしていた。体温が急激に上がって、わたしはこのまま死ぬのではないかと思った。
 ぎこちなく体を動かして、机を運ぼうと手を伸ばした時、わたしは今更ながらに、その机が、まさに今見られた男の子の机だと気づいた。
 頭が真っ白になった。今度は体が冷たく感じた。熱が逃げていってしまったみたいだった。
 とても、怖かった。


 掃除が終わってから、「帰りの会」がある。わたしは死刑を宣告された人のような心境で、座っていた。先生の声なんか、聞こえなかった。酷い耳鳴りがして、世界が遠かった。わたしの消しゴムを手に取ったその瞬間から、わたしの世界は違ってしまったのかもしれない。何かがおかしいと思った。
 もうそろそろ帰りの会が終わるという時に、一人の男の子が手をあげた。
「はい! 先生!」
「なあに、シュンくん?」
「スザキさんが、僕の消しゴムを盗りました! 僕、見ちゃったんです」
 ああ、来たな、とわたしは思った。不思議なことに、わたしは慌てなかった。静かに教室を見ていた。他のクラスメイトが不審そうにわたしを見ている。先生とシュンくんが話をして、先生がわたしの方へ向かってくる。あのね、疑ってるわけではないのよ。でもね、ちょっとだけ、先生に机の中、見せてくれないかな? わたしは頷く。椅子を引いた。ごめんね、サヤちゃん、と言いながら先生がわたしのお道具箱を引き出した。隙間のない箱。とても綺麗だと、わたしはこんな時に見惚れていた。いつの間にか、シュンくんが覗き込んでいて、消しゴムを指差す。
「これ、僕のです」
 ほんとうに? と先生がわたしを見る。疑った目をしている。そうか、人って人を疑う時、こういう目をするのかとわたしは思った。
 わたしが何も言わないせいで、先生は確信したようだった。擁護するように、シュンくんの友達とかが「俺も見た」「スザキが落ちたの拾ってた」と声がかかる。
 その瞬間、わたしは泥棒になった。
 シュンくんはクラス委員をしている人気者で、わたしはいわゆるオトナシイ子だった。暗いと思われていた。大人からは「何を考えているのかわからない子」と言われていた。友達とはっきり呼べる子もいなかった。わたしに最初から勝ち目はなかったのだ。
 わたしはそれを知っていた。だから、言い訳などしなかったし、もとより「言い訳」などなかった。だって、あれは間違いなくわたしの消しゴムだったから。




 わたしは地面に転がっている物を眺めていた。
 その、「わたしの消しゴム」だったものを。道具箱から飛び出した品々の中に、違和感なく溶け込んでいた。赤くて、鉛筆型の消しゴム。何でここにあるんだろうと首を傾げた。  そっと手に取る。こんなに小さかっただろうかと思った。
 まじまじと見てしまう。幻だろうかと疑ったけれど、ちゃんと実物として掌にある。ひっくり返して見ると、白い紙が貼ってあることに気づいた。いいや、それよりも先に文字が飛び込んできた。
『ごめん』
 汚い字だった。
「……アホじゃないの?」
 謝るくらいなら、最初からやるな、と心の中で毒づいてみる。大体ね、今更じゃないの。




 小学校の卒業式の時。皆が仲の良い友達と、そうでない友達とも、名残惜しそうに写真をとり、アルバムにメッセージを書いてもらうことに忙しくしている時、わたしは一人で校庭を横切った。卒業式まで持ち帰らなかったお道具箱を胸に抱えて。綺麗に整頓されているはずの中身は、振動でぐちゃぐちゃになってしまったのだろう。掌から、中身が怒っているような悲鳴を感じた。
 だって、仕方ない。隙間があるんだもん。
 校庭の一番角。北側の少し薄暗いところにある木の下に、わたしはしゃがみ込んだ。冬のせいか、土まで冬眠をしているようで、掌でかき寄せても深く掘れなかった。わたしは躊躇わず、一緒に持ってきていた卒業アルバムの角を、土に突き刺した。がりがりと抉るように掘った。何度か石に邪魔されたけれど、わたしは彫り続けた。アルバムはすっかり汚れて、角が擦り減ってしまっていた。もろいんだなあとわたしは思った。
 箱の形に、土は場所を譲ってくれた。わたしはその中に箱をいれると、隙間がないように土を被せて、固めた。
 とても気持ちが良かった。




 地面に散らばる物を拾いながら、わたしは考えた。きっと、卒業式の前日に返されたに違いない。前の日に、わたしはしっかり蓋をして、それから埋めるまで一回も開けなかったのだ。
「タイミング悪い人だなあ」
 わたしは呆れて呟いた。学区が一緒だから、例のシュンくんとは同じ中学だった。クラスは違うものの、時々見かける。もちろん、話なんかしない。けれど、すれ違う時とか、妙に視線が合うなあと思ったのは、もしかしてこういうことだったのかもしれない。こんな消極的な謝罪ですませようなんて、甘い。しかも伝わってなかったのだから、間抜けだ。
 いつまでも道路にばら撒いていられなかったので、わたしはひとまず箱の蓋に散らばった物を集めた。それを持って立ち上がると、隣にある公園に入った。ベンチに座って、膝に空いている方の箱を載せる。
「えーと、初めは確か……」
 蓋の方から見繕って、わたしは道具を並べ始めた。メモ帳は黄ばんでいるし、三角定規は曇っていた。コンパスの箱にもヒビが入っているがこれはさっきの衝撃でつけられたのかもしれない。
 大きいものから順々に。不思議と、手順を覚えていた。ちゃんと、缶の筆箱も入っていた。そうそう、嫌なことを思い出したくないからと入れて置いたのだっけ。筆箱はね、取り出しやすいように、手前に置くんだよね。横に置くと、ちょうど箱の長さとぴったりだった。その形が気持ちいい。
 あの時と、違った感覚もあった。箱も中身も、少しサイズダウンしていて新鮮に感じた。へえ、こんなに小さかったんだ。
 最後に、消しゴムをはめ込んだ。メモ帳と、コンパスとの間だった。朱色の消しゴムは、貼られた紙のせいで大部分が白くなっていた。
 隙間が埋まった。とても綺麗だった。









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