ゆりかごのような




 裕紀はそろそろとふすまを開け、やっと半身が通り抜けられるくらいの隙間を開けるとそっと身を部屋の中に滑り入れた。それだけで、なぜか緊張していたらしい。裕紀はほっと息をついて、こわばっている体をゆっくりと弛緩した。
 すっと息を吸い込むと、懐かしいにおいがした。ほんの数日前の出来事だったのに、裕紀はそう感じた。懐かしい。時間が断絶されているように思った。「あの日」と「今」が繋がっていない気がした。もう、何ヶ月もたってしまった心地がする。
 部屋の空気は、やはり以前とは異なっていたが、まだかすかに名残はあった。家の中で、この部屋だけはいつも違う香りがした。間違いなく家の一部なのだけど、空気だけは違う。ふすまをあけてこちら側は、裕紀にとって違う世界だった。
 がらんと空っぽになった部屋を、裕紀はぐるりと見回した。
(なんにも、ない)
 部屋の中は綺麗に片付けられていた。それはあの日以来ずっとそうだった。いいや、あの日はこの部屋のちょうど真中に祖母が横たわっていたのだと、裕紀は思い出した。真白い布団の上に、真白い着物を着た祖母が寝ていたのだ。脳裏に鮮やかに蘇ってきて、裕紀は頭を振った。振りすぎてくらくらしたため、裕紀は畳の上に座り込んだ。そのまま、首を捻って室内を眺めた。
 なぜだか知らないが、この部屋にあったものは、その日のうちにすべて取り払われ、空いている部屋へと移されてしまっていた。壁にかかっていたあれやこれやの賞状も、お気に入りの食器が収められていた棚も、かなり旧式でリモコンすらついていなかったテレビも、祖父の描いた油絵も何もかもだ。祖母愛用の掘り炬燵もすでに埋められていた。そこだけ真新しい畳が敷かれているのが異質に見えた。ここに相応しくない。
 裕紀はそれらが大好きだった。賞状は、ちゃんと裕紀がとったものもある。絵のコンクールのやつで、裕紀がはじめてとった金賞だった。掘り炬燵は、いつももぐっては怒られていた。酸欠するよ、とそれだけは祖母は厳しかった。裕紀には酸欠がどういう状態かわからなかったが、とにかく危険らしいということはわかった。
 炬燵に座る祖母の位置は決まっていて、その背後に食器棚があった。座ってでも手が届くように、その背は低い。裕紀はその中から出てくるお菓子が大好きだった。 テレビはいつも時代劇を映していた。裕紀がアニメに変えてしまっても、祖母は仕方ないねえと笑って許してくれた。
 祖父の描いた油絵は、とても綺麗だった。景色しか描かない祖父も、裕紀だけは描かずにいられなかったらしい。裕紀が眠っている絵がある。裕紀は覚えていないが、生まれた直後に描いてくれたらしい。裕紀は祖父をよく覚えていないが、その絵を見るたびに胸が温かくなったし、祖母も嬉しそうに目を細めるので、生きていたらきっと裕紀も好きになっただろうと思う。
(おばーちゃん)
 裕紀は立ち上がった。祖母が居なくなったということを、この部屋の空洞で感じる。何であのままにしてくれないんだろう、と裕紀は思った。部屋が消えてしまったせいで、裕紀はその不在を嫌と言うほど深く感じてしまっていた。
 畳を踏みつけながら、裕紀は押入れのドアを開けた。祖母の小物がダンボールに収められていて、裕紀は悲しかった。見たくなくて視線をそらすと、あるものを見つけた。
(……ゆり椅子だ)
 祖母が愛用していたアンティーク風のゆり椅子だった。裕紀はそれを引きずり出した。重かったけれど、何とか畳の上に降ろす。裕紀はそれを定位置まで引きずった。そこは、畳に二本の線がついていて、畳が陥没していた。椅子の足の部分にあたるように、裕紀は動かした。パズルのように、それはぴたりとはまった。
 小さ目のつくりをしているため、裕紀にも自分でよじ上ることができた。背もたれに体重をかけた瞬間、後ろにゆっくりと倒れこんだので、このまま背後から倒れるのではと冷や汗が流れたが、しかし椅子はすっくりと振り子のようにゆれただけだった。ほっと息をつくと、裕紀は体を揺らして椅子を前後に動かした。
 ギィ……、ギィ。
 畳の上にあるせいで、木が軋む音は少し鈍い。それを聞きながら、裕紀は目を閉じた。
(おばーちゃん)
 もやもやとしていた。そもそも、裕紀は悲しいのかどうかもわからなかった。悲しいという感情は、もっときっとはっきりしているのだろうと思うのだが、裕紀の中でそんなものはなかった。どうしてだろうと思った。クラスの中で悪口を言われた時の方が、心臓を針でさされたかのように痛むに違いない。
 今は、ただただ、じわじわと重苦しい気分になっている。晴れた日の中にいるのに、自分だけ梅雨の時期に放り込まれたような、常に少し薄暗いところにいうようだった。なんとなく、現実が遠い。
 ギィ、ギィ……。
 この音を聞いていると、ますます自動的に断片的な映像が飛び込んできた。祖母とテレビを見たこと。両親にしかられて、祖母の部屋に逃げ込んだこと。あったかいお茶を入れてくれたこと。猫と一緒に炬燵の中に隠れたこと。
 ……祖母が死んだこと。
 裕紀はぎゅっと目を強く閉じた。
 生きている祖母を触ったのは、裕紀が最後だった。先ほどのように、静かに部屋の中に入り込んで、眠っている祖母の頬に触れたのだ。かさついていたけれど、それは確かに暖かかった。
 それが、数時間後には冷たくなっていた。ありえない温度に、裕紀はびっくりして泣き出してしまったのだった。人間はここまで冷たくなれるのかと驚いた。
 あの感触を思い出す。よく似たものを、裕紀は知っていた。大好物の「雪見大福」だ。あの表面を触ったかのようだった。外は柔らかいのに、その奥は、限りなく冷たい。
 手にその感触がよみがえってきて、裕紀は慌てて自分の服に手をこすりつけた。摩擦で手が熱くなるまでこすりつづけた。ひりひりするくらいになって、やっと手を止める。
 裕紀は再び目を閉じた。
 ギィ、ギィ、ギィ、……。
(おばーちゃん)
 泣きながら、裕紀はその音を聞いていた。
 この音だけが、祖母がいた頃と何も変わらずに、ここにあった。







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